小さなことも丁寧に取り組むことで大きな変化を生む【私のアーリートラウマと食事について】
この地球上で 生き抜いてきた
愛するたましいの 仲間たちへ
中村あやです。
なんだかとっても意識の変わり目にいるような。
そんな時間を過ごしてます。
シフトちゅう〜
目次
じぶんに集中する、ということは、一見地味に思えるかもしれないけど、これほどパワフルなことはない
今、私が取り組んでいることは…一見とっても地味なのかも。
というか、私はこれを地味だなと“見ていた”に過ぎないんだなあ。
たんなる私のものさし、フィルター、ですね^^
今取り組んでいる、二つの傷
さて、なにに取り組んでいるのかというと…
それは、
・自分のニーズを自分で満たす
・自分の喜ぶことを自分に与えてあげる(表現する)
この二つって、似てるようで違っていて。
ニーズはそのまま、必要性。
お腹すいたから食べたいとか、眠りたい、体を休ませたい、寒いから暖かくしたい、などなど。
身体の快適な状態を保ってあげること、なのかな^^
喜ぶことは、必要ではないけれど、欲しているもの。
今の私にとっては、引っ越した新居のインテリアを整えること、ものを使いやすくする整理整頓をすること。(整理整頓はニーズもちょっとかぶってそう)
恐ろしいことに、私はこの二つが、ほぼほぼ機能していなかったんだ、ということに最近気がついたのです。
そもそもここに取り組もうと決めたきっかけは、アーリートラウマ。
0歳児〜5、6歳頃までに抱えた心の傷のことなのだけど、ここに来ると記憶がともなわないものも、増えてくる。
自分のことを見つめて、親との関係も見つめ、変わってきたものがあるのだけど、どうも記憶にないけれど、なにか傷や痛みを抱えているな、というにおいを、ずーーっと感じていました。
はっきりと、こんなひどい出来事がありました、という記憶はないのに、なぜか上手くいかないことがある、ということは、私の人生に色濃く影響しています。
記憶になくても影響を及ぼすもの
記憶になくても、意識がなくても、自分に強く影響を及ぼすものに、どう気づいて、どう変えていくか?
それはずーーっと私の人生のテーマ。
そのことから、無意識の仕組みや脳科学、メンタルブロックなどについて学んできました。
さらに(記憶になくても影響を与えているものが)ここにあったのだな、ということが腑に落ち始めているのがこのアーリートラウマというものでした。
人によって影響を受けている部分はいろいろですが、私の場合は、
・自分のニーズがわからない、自分のニーズを満たせない
・自分の喜びがそもそも感じられない、周りの喜びのためだけに動いてしまう
といったパターンを特に強く持っています。
記憶になくても、自分の無意識の中にしまわれているものに、行動も思考も感情も、私たちは強く影響を受けているものです。
そして、どういう影響が出ているのか、がわからなければ、それを変えようもない、という(脳や無意識の)仕組みの中、人は生きてます。
最近、どうやら私はニーズがわからないし、満たせていない、自分の喜びより人の喜び優先、というパターンが発動しているなと気がついて、ここに取り組むことができるようになっています。
お腹いっぱいでも食べ続けてしまう
ニーズと喜びの部分、おそらく両方影響しているのが、私にとっては『ご飯の食べ方』だったことに気がつきました。
私は料理は好きではないし、苦手。
旦那さんが料理が大好きで得意なので、うちのキッチン・食卓担当は、完全に旦那さんです。
作ってもらって、それを頂いています。
そこで…私、ずっと、多分ここ3、4年くらい、作ってもらって食べるようになってからだと思うのですが、“お腹いっぱい食べ過ぎてしまう”“お腹いっぱいでも残せず食べてしまう”んです。
結婚してから体重が増え続けて、今は一応止まっているけれど、痩せられないし、痩せる気も本気では起きてこないし、なんだろうなぁと思ってたんです。
それが、“お腹いっぱい食べ過ぎてしまう”からなんだな、ということが繋がってきたのは、ここ一年くらいかなぁ。
じゃあ残せばいいじゃない、というと、それが無意識のパターンのなせる技。笑
できないわけです。(そして体重も増えたままキープ!笑)
最初は美味しいから食べ過ぎちゃうんだよな、小皿にわけずに大皿から食べてるからだよな、などと考えていたけれど、そこじゃないんですよね。
問題は行動レベルにはないんです。
ニーズを満たせない、自分を喜ばせてあげられない、と気がついたなら、決めることは簡単。
ニーズを満たす、自分を喜ばせてあげる。
そしてニーズというなら、食欲が関係する食事だってそうだわ!と。
お腹いっぱい、という体の生理的欲求を、とことん無視し続けてきたのだわ、と。
じゃあなぜお腹いっぱいに食べるの??その時の自分の心の声をちゃんとキャッチしてみました。
すると…
“作ってもらってるのに(出された料理に)文句言っちゃいけない”
“作ってもらってるのに残しちゃいけない”
そう言っていることに。
一つ目は、母が料理が好きじゃなくて、それでも頑張って作ってくれていて、だから私が作ってくれた料理になにかを言ったとき、それが文句というか、非難されてるように伝わっちゃっていたんでしょうね。
母が言っていたんです。
「作ってもらってるのにいろいろ言わないで(文句言わずに食べなさい)」というニュアンスのことを。
それが自分の無意識の中に、しまわれていたんですよね。
このことは少し前に気づいていたので、少しずつ、旦那さんにリクエストするようにしてました。
作ってもらってる上にあれこれリクエストするなんて…、と自分の無意識はざわざわします。笑
けれど、私にはそういう背景があって、リクエストしづらいんだけど、していいのかな?ということを確認しました。
旦那さんは、むしろ作る方としてはリクエストあった方が嬉しい、と言ってくれて、そうか、大丈夫なんだな、いいんだなって、ここも確認しながら。
文句じゃなくてリクエスト。
今日はこんなものが食べたい、こういう味のものがいい、お腹の空き具合と食べたい量など。
初めて私の食べたいように食べられた!
だけどね、そこまで伝えたら…今度はそこまで言っているのに、むしろ言っているからこそなのかな、“作ってもらってるのに残しちゃいけない”が、発動してたんですよね。
食べたら、喜んでくれるんですよ。旦那さん。
これ、自分のニーズ(お腹いっぱい)より、相手の喜びを優先しちゃってるんだ、と。
そこに気づいて、決めました。
私のニーズを先に満たす、と。
旦那さんは、私が美味しいって喜ぶと、喜んでくれますが、決して私がお腹いっぱいになって苦しくなるまで食べていることを喜んでいるわけではありません。
そもそも残せないってことに気づいてからは、旦那さんは「残していいからね」と言ってくれていました。
そうしたら、なんと四日ほど前!
初めてお腹いっぱいになりすぎずに、ご飯を食べられた!
しかも、並んでいるおかず、好きなものを好きな量食べて(自分の食欲、求めるものに従った)、あまり食べたいと思わないものはあまり手をつけない、残す。
そこで満たされたところで、お箸をおいていたのです。
これ、お腹いっぱいになったら止めよう、と意識してそうしたのじゃないんです。
食べ終わったときに、あ、お腹いっぱいになってない!でも満たされていて心地いい、という状態になってることに気がついた、のです。
私が取り組んだのは、ニーズを満たす、と決めて、自分の食欲という感覚や欲求を優先する、ということ。
具体的に、旦那さんが作ってくれた食事を食べるときに、それができていないことに気づいて、ニーズを満たすと決めた。
そんな風に、自分の無意識のパターンを見つけたり、その課題がなにか?を理解して、なににどう取り組むのか、ということを考えて取り組む。
これって、外からは全然見えない活動ですよね。笑
だから一見地味と(私は)感じてしまう。
でもね、これほどパワフルなことはない。
なぜなら、私は、自分のニーズを満たす、と決めてそうできるようになってきた結果、とっても満たされているからです。
しかも四日前にお腹いっぱいにならず、満たされて食事を終えられてから、その後も食べ過ぎることはありません。
自分で許可が下ろせたからですね^^
自分の食欲、感覚を優先する、ということに。
体重はどうなっていくかわかりませんが、自然に落ちるんじゃないかな、っていう気がします。
ニーズを満たす、自分を喜ばせる、ことの先に、喜び溢れる人生の創造がある
アーリートラウマにしっかり取り組み始めることにしたのは、ここに傷を抱えたままでいると、自分の喜び溢れる人生の創造を妨げてしまうからです。
自分のニーズを満たしてあげられない、自分の喜びを与えてあげられなければ、その日々の積み重ねは、どんな人生になるでしょう。
逆に、ニーズを満たしてあげられる、喜びを与えてあげられる日々の積み重ねは、どんな人生になるでしょう。
私は、無意識に影響されて、望まない現実を創造する、ということを、人生のある時点まで繰り返してきました。
昔から漠然と感じていたのが“自由でない”という想い。
どう頑張って自分で行動しても、現実をこじらせてしまう、ということがたびたび起きる。
だから見えないなにかに制限されている感覚、自由でない、という想いを抱えていました。
こうした無意識の仕組みを知り、活用して変化を起こしていく中で、「人生を主体的に創造できる視点」を手に入れられたことに気づいた瞬間、初めて“自由だ”という感覚が心の底から湧いてきました。
ニーズを満たせない、喜びを与えてあげられない、それを繰り返すことで起きることは、“私はニーズを満たすに値しない人間だ”“私は喜びを与えてあげるのにふさわしくない存在だ”と、自ら(無意識に)刷り込んでいく、ということ。
そうしたら、自分の喜び溢れる人生を創造することが、できなくなっていきます。
自分の人生は自分でいい方向に創造していい、ということに許可が下ろせなくなっていく。
お腹いっぱいになるまでなぜか食べてしまう、という、ニーズを満たせないでいることを放置することは、そんな風に私を私が傷つけてしまうことになる。
だから、一見地味なようでも、大きなことだとわかっているから、取り組みます。
私のために。
逆に、お腹いっぱいになるまで食べ続けてしまう、という満たせないでいるニーズに対して、ちゃんと、“私の体の感覚、欲求を優先してあげる”と決め、取り組むことは、自分の人生を喜び溢れるものに創造していく力を取り戻すプロセスそのものなのです。