人生のどん底から、浮上し始めたきっかけ

人生がおもしろいように
動くときというのは、

いつも
意外なところから、
意外なものがやってくるときだ、
と思う

 

 

この地球上で 生き抜いてきた
たましいの仲間たちへ

インナーパワー
ヒーラー&コーチの
中村 アヤです

 

 

 

2009年に
重度の椎間板ヘルニアになり、
半分寝たきり

健康も仕事もお金も失い、
パートナーもなく、

自活できずに実家に戻る

 

わたしが引き起こした
健康とお金のトラブルから、
家族問題にまで発展

引っ越しも自力でできず、
家族に任せきりするしかなかった

 

そうして半年は、
ひとに知られたくない
気持ちもあり、

お金もないので
携帯だって解約して、

一時期、友達の間では、
わたしの行方が知れない?!と
心配をかけてしまったものだった^^;

 

半年ほどは
生きるエネルギーが枯渇していて、

そもそも毎日、
まともに寝付けなかったほどの
痛みがあって、

そのことでエネルギーが
削られていたように思う

 

母が週六日、
連れて行ってくれた
接骨院では、

歩け、
ストレッチしろ、
筋トレしろ、
などと言われたものの、

どう動かしたって
神経にさわって痛いもので、

前向きなエネルギーが
生まれるような状態ではなく、

まともなセルフケアも
できなかった

 

それをまた家族に
責められることもあって…

 

 

 

 

 

はぁ、
あの頃のわたし、
本当大変だったよね…^^;;

 

前にも、
斜めにも腰が曲がって
固まっていて、

腰をまっすぐ
伸ばすこともできず、

こんなんでは
この先結婚することも
できないのじゃないかと
思っていた

 

斜めに腰が曲がっているのは、
背骨が側弯していたから
なのだけど、

セカンドオピニオン的に受けた
整形外科では先生から

「側弯は、
治らないかもしれません」

と言われた

 

どんなにエネルギーが
枯渇していても、

どこかからか
わたしの本当の力が
顔を出したのか、

“絶対治る…

と、その声に答えるように、
でも口には出さずに、
心の中でつぶやいたのを
よく覚えている

 

日常では、
じぶんの身体は
元に戻らないんじゃないか、

また健康的な
普通に生活することができるのか
イメージもわかなかったし、

絶望しか感じていなかったと思う

 

だから治らない、
と聞いたそのとき、

それでも力強く、
“治る”
とつぶやいたのは
今思うと
不思議なような気もするし、

やっぱりわたしらしい、
とも思う

 

 

自分では10メートルも
歩くことすらしんどく、

外に出るときといえば、
接骨院に車で
連れて行ってもらうときだけで、

そのときのわたしの世界は、
家、車の中、接骨院
だけだった

そんな風に、
半年はほぼ横になってばかりいた

 

ところが半年くらいして、
おそらく少し、
エネルギーが溜まってきたのか、

なにもせずにいたことで、
充電できたのか、

ふと、
“歩いてみよう”

半年経つなかで、
初めて前向きな意思が生まれた

 

 

 

 

そもそも、
歩こうとしなかったのは、

接骨院の先生から
「おばあちゃんみたいな姿勢」
と何度も言われた、

その姿を近所のひとに
見られたくなかったからだ

 

先生は悪気はなく、
なんというか、
下町のちょっと口の悪いおじちゃん
といったようで、

わたしにはっぱをかけるつもりで、
その言葉を掛けていたことは
わかっていた

その言葉を聞くたびに
背を伸ばしてみたものの、
曲がったまま伸びきることはなく、
そして痛いだけだった

真っ直ぐは無理だなぁ
そう思っていた

 

おばあちゃんみたい、
というその言葉自体を
気にしていたわけではなく、

割り切って、
ある意味流してはいたのだけど、

33歳という年齢で、
結婚もせず、
身体を壊して、実家にいること

 

しかもまぁ、
着た切り雀というか、

施術に向くような
ゆるく楽な部屋着レベルの
いつもおなじものをきていて、

化粧はもちろんなし
髪もボサボサ

そんな姿を
ひとにさらしたくなかった

惨めだったんだよね

 

うん
すごく惨めだった

 

あぁ、
わたしはあのとき、
惨めさを感じていたんだな。。

 

 

そう、それでも
“歩こう”
という意思がでてきたのは、

“ひとにどう見られるか、
どう思われるかより、
大事なのはじぶんの身体じゃない?”

と、突然、思ったからだ

 

ひとのことより、じぶんのこと

誰かからどう思われるかより、
じぶんでじぶんのことを思う

 

ある意味、身体を壊したのは、
じぶんでじぶんのことを
ダメにするように
生きてきたからだろう

じぶんのことはおいてけぼりで、
ひとのことばかり見て、
気にしていたのだろう

 

療養生活になってから初めて、
ひとからの視線を
どーでもいい、
と手放せた瞬間だった

 

 

とはいえ身体はまだ、
前にも、斜めにも、
曲がったままだった

ゴムとプラスティックでできた、
骨盤ベルトを、
寝るとき以外いつもつけていて、

その支えがなければ、
生活がむずかしかったからで、
当然痛みも残っていた

 

 

接骨院の帰り、
母はよく、
湧き水が出ている場所に寄り、
お水を汲んでいた

市民が利用できるよう
整えられた場所で、

広い駐車場が用意されており、
その端っこに水汲み場があった

 

 

“歩こう”と思っても、
じぶんで外を出歩くほど、
歩き回れる力はまだなく、

わたしはいつも車のなかで
待っていたが、

ある日、その駐車場の端を、
歩いた

 

暗かったのを覚えているから、
夜だろう

駐車場もがらがらだから、
ひとの目も気にならなかった

 

万歩計をつけて
歩いた

無理せず、
というか
無理も出来なかったので、

歩いたのは確か、
たった100歩ほどだったと思う

 

駐車場の端を歩いた

それだけだ

 

 

 

 

2009年は、33歳だった

それまでのわたしは
器用貧乏というか、
要領がよかったせいなのか、

すこしやれば
ある程度のことができてしまい、

なにか一つのことを
努力してこなしたり、
ものにしたり乗り越えたり、

ということを
あまり経験してきていなかった

とくに苦労をすることもなく
きてしまったんだろう

 

 

二十代前半は
メンタルが結構きていて、

当時精神科に勤めていた
妹からは“適応障害ギリギリ”と
言われたくらい、
情緒不安定で、

ある意味生きづらさは
ずっとお供で生きてきたけれど…

 

 

病気になって、
そこまで本当に

なにもできない

というのは
初めての経験だったと思う

 

 

なにもできない

自活できない、
歩けない、
働けない、

友達と会ったり
遊ぶことはもちろんない、

 

昼はなにしてただろうか、
横になってテレビや映画を
観ていたかもしれないが
あまり記憶にない

夜寝るときには、
痛みを紛らわすために、
村上春樹の長編小説を
読み直した

引っ越しのあと
しばらく詰めっぱなしに
なっていたダンボールから

漁るように引っ張り出してきた
ものだった

それから
母が数独を買ってきてくれたので、
それは寝る前も熱心に
やっていた

痛みが紛れてよかった

 

 

そんな
なにもできない状態から、
100歩だけ、
歩けた

駐車場の端っこを
ちょっと

 

その“すこし”がよかったのだと
思う

痛みがでない程度に、
イヤにならない程度に、
すこしだけ

 

それから100歩が150歩になり、
200歩になり、
300歩、400歩・・・
と、どんどん歩けるようになった

毎日、
ちょっとずつ、歩いて
ちょっとずつ、増やした

 

よかったのは、
歩数を“数えていた”ことだ

目に見えて、量が増える

ゼロだったところから

それがよかった

 

そうするうちに
距離が伸びてきて、
駐車場じゃ足りなくなったから、

近所をウォーキングするように
なった

 

毎日毎日、
そうして歩いて行くと、
歩ける距離が増え、

そしてよかったことに、
歩けば歩くほど、
身体が真っ直ぐ、
伸びてきたのだ

痛いのにやれと言われた
筋トレやストレッチより、
痛みもなく、効果があった

 

2000とか、5000とか、
歩けるようになった頃には、

あんなに曲がっていた身体が、
真っ直ぐになっていった

 

それが嬉しかった

 

 

歩き初めて、
たった一ヶ月だった

 

 

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