嫌われる勇気も、役立つことも、必要じゃなかった【わたしにとって書くために】

中村あやです。

このところ、書く、ということを掘り下げていました。

このところというよりも、下手すると一年以上も、もう少し短かめのスパンでいうなら、三、四ヶ月というところ。

書きたい、という欲求はあるのに、なんかするとひゅっと引っ込んでしまう。

書くことは楽しく、こうしてブログの記事が書けると、とても喜びを感じているのに、そこまでの腰が重いことを感じてた。

 

 

書く、ということを、以前とは違う角度から捉えようとすることを始めたのは、2018年11月から始まり、2019年6月まで行われる、本郷綜海さんのLife Art Schoolに通い始めたことがきっかけだ。(私は、30人強いる、1期生の一人として参加している。)

ここはヒーリングスクールであるのだけれど、当初は、ヒーリングそのものを学びたいとは思っていなくて、すでにセッションでエネルギーを感じ、扱っていることを、より理解し取り扱えるようになりたい、と思っていたこと。
人前に出て行くこと、(もっと広く)プロとしてやって行くことに、なにか引っ掛かりがあること、そこを突破したかったこと。
胎児〜6、7歳までに抱える発達初期のトラウマ(5つの傷、プレバーバル、キャラクトロジー、アーリートラウマなどと言われているもの)を癒し、前に進みたかったこと。(スクールの中では、「キャラクトロエナジー学」として取り扱われています)

 

スクールに入る前までの私は、“役に立つことを書こう”、“役に立つように書こう”としていた。

役に立つことを書く、というのはある意味、ビジネス的にや自己啓発の観点からは、よく言われる発信のスタンス。じぶんのことを書くだけではね、誰もあなたのことに興味ないよ、とまで言われることも本当によくあった!(知っている人も多いよね?)

ただこのところ変わってきている。
“サービスを提供する、そのあなたは誰なのか?”ということ。
“あなたは何者ですか?”という問い。

 

私はそれまでの、“役に立つこと”にしばられすぎていたのだと思う、多分。

それに、“役に立つように”というのは、私が気にしなくていけないことではなかった。

役に立つかどうかは、読み手側の捉え方に委ねられていて、私にどうこうできることではないもの。
じぶんのこと書いたって、読んでくれた人が勝手に役立てるということだってあるかもしれない。

実際にそれが起きていて、そういう感想だってもらうこともあったのに、その可能性に閉ざしていたのだよね。
うん、過去の私は理解できていなかったし、受け取れていなかった部分だと思う。

 

役に立つように、役に立つことを書こう

それを意識するから、腰が重くなる。書けなくなる。

意識しているつもりがなくても、そもそも書こうとするときのベースに据えていたものだから、書きたいという思いとそれがアンビバレント(相反する気持ちを抱く状態)さを生じさせていた。

意識しなくていいんだよ、書きたいように書いていいんだよ、と周りから言われたこともあったけれど、“役に立とう”とすることは、じぶんからはなかなか手放せなかった。

 

書くことについて、感じながら掘り下げていたら、私の場合、書こうとすることに対して、必要な意識は、そこじゃなかった、ということが急にわかってしまった。

役に立つようにとか、たとえば嫌われる勇気とか、私にはそれらはまったくピンとこなくて、もっと違う部分にあった。

そもそも、もっと根本的なこと。

 

なぜなら

表現すること

そのことそのものに、傷があったのだから。

 

その傷は、胎児〜6、7歳までに抱える発達初期のトラウマからきていた。

二子渉さんからアーリートラウマとして学び、「長いものに巻かれる防衛」のパターンとして。

本郷綜海さんからキャラクトロエナジー学として学び、「マゾキスト」パターンとして。

そこに気づき、本郷綜海さんのLife Art Schoolで、そのプロセスに取り組んでいったら、癒えてきた。

ううん、意図して癒してきたんだ。

 

 

人前に立って、表現したい

 

それは私の中に、根源的な欲求として、ずっとそこにあった。

トラウマを癒したら、そこに触れられたんだ。

そこに触れると、そこはとても暖かで、まっすぐとしたはっきりした意志を持っている。

私の純粋な意志が、息づいている。

 

私はその、純粋な意志を取り戻しつつある。

意志や意図を持つこと、それを発揮することは危険であると、発達初期に間違って捉え、覚えてしまった私は、それを封印してきたのだよね。

それを発揮するのが怖いから抑えていると、じぶんの力が足りないように感じてしまうものだから、それをカバーしようと、“役に立つように、役に立つことを、書こう”としてきたんだ。

 

だから私に必要だったのは、役に立つことを書こう、と意識することでもなく、嫌われる勇気を持って発信しよう、ということでもなかった。

 

私は私の伝えたいことを伝えていい、と許可してあげることだった。

私は私の表現したいことを、表現していい、と許可してあげること。

 

人生を変えるのに、とっても重要なポイントは、“許可”だ。

ダメだ、いけない、と思って我慢してきたこと、制限してきたこと、蓋をしてきたこと、ないことにしてきたもの。

それは無意識に沈んでいて、それを抱えたままでは、大抵、変えるための行動は起こせない。

まず、ダメ、いけない、と思って制限してきたことに、気づき、そこに光を当てる。

 

その上で、許可しなおすのだ。

じぶんの人生を、生きるために。

 

私は、私の表現をして、いい。

それは誰も傷つけない。
(勝手に傷つく人はいるかもしれないけれど、それはもう仕方がない)

そしてまた、その表現が、誰かの力になり、背中を押し、勇気を生むかもしれないのだ。

そこに、その可能性に、心を開いていい。

 

 

私の中に生まれつつある、純粋な意志。

それを表現するために、今までとまったく違う感じで、“書く”ことを始めてみたいと思う。

 

また、書きます。

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